夢は人類の歴史上でなんども偉大な芸術や科学的発見に貢献してきました。夢はランダムなニューロンの動きや無意味な幻想ではなく、眠っている間に起こる立派な思考だということを今では脳科学者達も認めています。夢がきっかけとなって創造・発見された、これまでの歴史で最も画期的だったものトップ10をまとめました。

世界初のサイエンスフィクション小説

フランケンシュタイン

メアリー・シェリー著のフランケンシュタインの話は、世界で最初のサイエンスフィクション小説とされていますが、これは彼女がみた悪夢が元になっているのです。

メアリーは18歳のときに、詩人のジョージ・ゴードン・バイロンに会いにスイスへ行きました。その時は、前年の火山の噴火により、夏の来ない極寒の年で、外に出るのは厳しかったそうで、毎日室内で暖炉の前で過ごしていました。そこでバイロンはメアリーに、二人でそれぞれ怖い話を考えようと提案しました。でも、メアリーは何日考えても良いストーリーが思い浮かびませんでした。

ある日、二人の会話の中で生命の話題になったときにメアリーは、死体を蘇らせるというアイデアを思いついたのです。そしてその晩、彼女は鮮明な悪夢をみました。その夢では、色白の博士が彼が創造したモノの横に膝間づいていました。そこには大の字に広げられた男の幻影があり、なにやら強力なエンジンのようなものと生命を示す何かがあったといいます。その世界観がフランケンシュタインのコンセプトになったのです。

ビートルズの大ヒット曲「Yesterday」

ビートルズ

1965年に、ポールは大ヒット曲「Yesterday」のメロディーを丸ごと夢の中で作曲しました。目が覚めたあともしっかり覚えていたため、すぐにピアノで再現し、家族や友人達にそのメロディを聞いたことがないか聞いて回ったそうです。無意識のうちに誰かの曲を真似しているだけだと思ったのです。

一ヶ月間ほど調べても誰もその曲に聞き覚えがないと言うので、自分のものにすることを許したポールは、ジョン・レノンと一緒に歌詞を書き、ビートルズのアルバム「Help!」に収録されました。

メランコリックなアコースティックの楽曲であることから、イギリスでのシングルリリースはされなかったが、アメリカでのみ発売されました。その結果、4週間連続でビルボードチャートの1位を維持したのです。

そして現代での「Yesterday」の人気は絶えず、カバー曲は2200以上も発表されています。

原子の構造の発見

ニールスボーア

料理力学の父、ニールス・ボーアは彼が見た夢のおかげで原子の構造を発見できたと言っています。

学術的な親の元に生まれたボーアは、1911に博士の学位を取得し、物理学の世界で複雑な問題を次々と解決していき同僚を閉口させていました。

ある時、ボーアは原子の構造を解明しようと試みましたが、どう試しても上手くいかなかったそうです。

ですが、ある夜、夢の中で太陽の周りを回る惑星と同じように、原子核の周りを電子が回っているのをみたと言います。

目が覚めたあと、ボーアはそれが真実だと感じ、世の中に発表する前に証拠が必要なのですぐに研究室に戻りました。

結果として、ボーアは原子の構造を解明することに成功し、彼の生涯でも最も偉大な発見の一つとなりました。更に、後にこの発見はノーベル賞を受賞しています。

ミシンの発明

エリアスハウのミシン

エリアス・ハウは、彼の夢がきっかけとなって現代のミシンの原型を発明しました。
ミシン自体はその前から存在していたのですが、ハウは遥かに効率の良い形に改善することができたのです。

ハウは効率の良いミシンを発明しようと悪戦苦闘してノイローゼになりかけていたところ、ある晩夢をみたそうです。

その夢の中でハウは、ある国の王にミシンを24時間以内にミシンを作らないと死刑だと言われ、ミシン作りに必死に励むも、現実世界でも直面していた針の目の部分の問題に直面して、それより先に進めないまま時間切れとなってしまいました。そして死刑にされるために連行されているところ、兵士の持っていた槍の先に穴が空いていることに気がつき、それを見てミシンの針の穴の位置を針の先に付けるというアイデアを閃いたのです。

ハウは、もう少しだけ時間をくれるようにせがんでいるところで目が覚めました。

目が覚めたのは午前4時でしたがハウは飛び起きて作業場へ走っていき、9時には簡単なモデルが完成したいたと言われています。

そしてこれが現代のミシンの発明へと繋がったのです。

光の速度の証明

アインシュタイン

アインシュタインは世の中の秩序に対する天才的な発想で有名ですが、どのように夢が彼の役にたっていたのでしょうか?

ある晩、アインシュタインは夢の中で山の急な斜面でソリ滑りをしていました。そしてそのスピードはどんどん加速し、ついに光の速さまで達する勢いでした。その瞬間、彼からみた星の外観に変化が起こり始めたとのことです。

アインシュタインは目が覚めてからこの夢について瞑想し、その後すぐに人類史上最も有名な理論の一つである相対性理論を発明したのです。

これ以外にもアインシュタインがみた興味深い夢は多く、アラン・ライトマンによる「アインシュタインの夢」にまとめられています。

数々の数学定理

シュリニヴァーサ・ラマヌジャン

シュリニヴァーサ・ラマヌジャンは解析的理論に大きく貢献した天才数学者です。楕円関数、無限級数、連分数を含め、生涯で3000以上の数学定理を証明したのです。

ラマヌジャンは自分の実績には自分がみている夢の影響が大きいと言っていました。

彼は頻繁にヒンズー教の女神、ナーマッカルの夢をみていたそうで、彼女が複雑な数式を何度も何度も提示してくるのだというのです。そしてラマヌジャンは目が覚めてからそれらの数式が正しいのか検証していたのです。その中の一つがパイの無限級数です。

「夢の中で目の前に赤いスクリーンが現れた。それは流れる血によって形成されているように見えた。すると突然、手が現れ、そのスクリーンに文字を書き始めた。私はその文字に集中して見ていると、それは楕円積分の結果値を並べていることに気がついた。その数字が頭から離れず、目が覚めてから書き留めた。」

ラマヌジャンは、自分が見たある夢をこのように語っていました。

天才ラマヌジャンは、誰にも数学を教わることなく、独学と数々の夢から様々な理論を提示してきました。マドラスのスラム街からケンブリッジ大学までステージを上り詰めたラマヌジャンのストーリーは非常に興味深いものです。詳しくは、書籍「
無限の天才―夭逝の数学者・ラマヌジャン」を読んで見てください。

名小説「ジキル博士とハイド氏」

ジキル博士とハイド氏

ロバート・ルイス・スティーヴンソンは、自著の名作ファンタジー小説、「ジキル博士とハイド氏」の中で三つの重要な展開を夢で見ていたのです。

スティーブンソンは体が弱かったが、ジキル博士とハイド氏を書くまでは作家として家族を養っていた。

夢の中でスティーヴンソンは、罪を犯したハイドが、彼を追う人々の目の前で薬を飲んで姿を変えようとしているところを見たと言います。

ですが、その直後に奥さんに起こされます。というのも酷く魘されていたそうで、そのときもスティーヴンソンは体調が悪く下痢で、痛み止めの薬によってよく見る悪夢の影響かと奥さんは思ったのです。起こされたスティーヴンソンは奥さんに向かって「なぜ起こしたんだ!面白い夢を見ていたところなのに」と文句を言ったそうです。

その夢は小説の中でハイドの最初の変身のシーンになったのです。

翌朝、スティーヴンソンは狂ったかのようなスピードで小説を書き始め、3日間で3万ワードのドラフトを仕上げたのです。ですが、それを読んだ奥さんが「元々話していたあらすじと真逆じゃないか」と指摘したため、スティーヴンソンはそれを丸ごと燃やしてしまったのです。

その後数日間、スティーヴンソンが紙くずに囲まれて小説を書き直している間は家族は邪魔をしないように常に忍び足で生活していたとのことです。

6日後にはスティーヴンソンは64000ワードのドラフトを仕上げました。当時はタイプライターやコンピューターというものはなかったのでこれは脅威のスピードでした。

ジキル博士とハイド氏は大成功を納め、良い人と悪い人の二重人格を持つ人の子とをジキルとハイドと英語では例えることが今でもあるほどです。

化学的神経インパルス

オットー・レーヴィ、アセチルコリン

オットー・レーヴィはアセチルコリンを発見したドイツ人の薬理学者です。医薬療法を前進させた神経伝達物質で、偶然なのかこの物質は夢を見やすくする力を持っています。

レーヴィの発見は13年後にノーベル賞を受賞したのですが、その事実と同じくらいその発見の方法も有名なのです。

1921年のある晩、レーヴィは夢の中で、ついに神経インパルスは電子的てはなく化学的だということを証明できる実験を見たのです。

夜中に目が覚めたレーヴィはその実験の内容をなぐり書きして二度寝をしました。翌朝、その実験を試そうとわくわくしながら起きたレーヴィはショックでどん底に落ちました。自分が残したメモが汚すぎて読めなかったのです。

彼はその日が人生で一番長く感じた一日だと語っていました。幸運なことに、その晩また同じ夢を見ることができ、目が覚めるとすぐに研究室に直行し、ノーベル賞を受賞することになった実験を実証したのです。

ベンゼン環の発見

アウグスト・ケクレ、ベンゼン環

アウグスト・ケクレはドイツ人の有機化学者で、ベンゼン分子の構造を発見した人物です。ベンゼン分子とは他の有機化合物の線状ではなく、円状なのです。そしてそれは、すべての芳香族化合物の理解へと繋がり、純正化学にも応用化学にも大きな影響を及ぼす発見となりました。
ケクレは、ウロボロスと呼ばれる、自らの尻尾を咥えている蛇を夢で見たことがきっかけでベンゼン分子の構造に閃いたと言われています。

糖尿病からの救い

フレデリック・バンティング

フレデリック・バンティングは、母が糖尿病を患って亡くなってしまったあとに治療法を見つけようと決意しました。

そして後に大きな手助けを発見しました。糖尿病を完治させる治療法ではありませんが、インスリンを注入することで患者の寿命を大きく伸ばすことができるようになったのです。若干32歳にしてバンティングは、この発見でノーベル賞を受賞しました。

彼は糖尿病にかんする知識は浅かったものの、アシスタントの知識とバンティングの手術に関する知識の組み合わせによって生まれたアイデアでした。

糖尿病の原因を探っているときにバンティングはある夢を見ました。その夢の中で彼は糖尿病になった犬の手術をして膵臓を結紮するべきだと言われ、実際にそうしてみると糖分とインスリンのバランスが大きく崩れていることに気がつきました。
そしてその発見の後にまた別の夢でインスリンを薬品にする方法を思いついたのです。

この発見によりバンティングは1923年にカナダで最も有名な人物にまでなり、何百もの糖尿病の患者から感謝の手紙や贈り物が届いたと言われています。それ以降、今でも何百万人もの人がインスリンによって救われて居ます。